プライベート空間から滲み出す、パブリック空間が街の表情を決める

2022.01.31

泉英明

都市プランナーであり有限会社ハートビートプラン代表の泉英明さん。「水都大阪」のディレクターを務め、大阪都心部の水辺空間のリノベーションをはじめ、大阪なんば、西梅田、高松、姫路、山口などのまちなか再生やプレイスメイキングを次々と仕掛けてきた泉さんにこれからのまちづくりやパブリック空間の利活用について話を聞いた。 Q. 2004年に有限会社ハートビートプランを設立されていますが、都市デザインに興味を持ったきっかけは? A. もともと旅行が好きで、中学、高校と電車や自転車で各地を回り、中学3年のときには初の海外旅行先に中国を選んで仲間たちと旅をするなど、さまざまな街をみていました。また僕は手塚治虫の漫画が大好きで、環境をテーマにした話が『手塚治虫漫画全集』によく登場していたことから環境問題に興味を持って。もっと深く学びたいと、当時は唯一この分野を学べた大阪大学を進学先に選んだんです。 大学3年のときにたまたま都市再開発の授業を受けたのですが、とても面白くてこれだけはすべて出席しました。実際に街に出て、いろいろな人の話を聞きレポートにまとめる課題が出て、僕は金沢の街が好きだったので金沢へ行き、その土地の人々に話を伺う機会を得たんです。それまでも日本各地を旅しましたが、街は多くの人の活動による結果であり、自分で街に関わって何かしようとは思ってもみなかった。しかし、金沢の人たちは自分の街にとても誇りを持っていて「自分たちがこうしたから、いま街はこうなったんや」など、自分たちのまちづくりを真剣に考えている人々がいて、学校で習っているだけではわからない、リアルなまちづくりを知って衝撃を受けました。それからはさらに興味が湧いて、都市計画コンサルタントという職業があることを知るのですが、なんと授業の講師が都市計画コンサルタントだったんです。その方にお願いして卒業後、事務所で働かせてもらったのがスタートでした。

泉英明さん/有限会社ハートビートプラン代表取締役

Q. 独立して会社設立に至った経緯を教えてください。 A. その方のもとで10年間修業しました。阪神・淡路大震災の復興やいろいろな都市計画のプランなどさまざまな経験を積ませていただきましたが、バブルが崩壊して財源もなくなり、机上のプランはつくるけど一向に実現せずお蔵入りしていくことが多発したんですね。この仕事に限界を感じていました。ちょうどその頃、共感を呼んだら街は変わるんだという可能性を感じる出来事があったんです。それがきっかけとなり、ワクワクする街をつくりたいと独立を決意しました。 Q. そのきっかけとなった出来事が、2003年の「リバーカフェSUNSET37」ですね。 A. 現在は複合施設「タグボード大正」がある尻無川の対岸で、2週間限定で合法的に2隻の台船を係留し社会実験を行いました。実施する2年ほど前から大阪の水辺をすべて歩き、水辺で何をしたら心地よく面白いかを7人の仲間たちと話し合った結果、毎日ライブ演奏をしてドリンクやフードを提供する、船上レストランを営業したんです。 河川法や船、飲食店運営など知らないことばかりで、たくさんの人たちに助けられて実現しました。地元のおばちゃんが常連になって毎日来てくれたり、ボランティアなど多くの方々の協力を得て、最終的に事業費でかかった350万円程度が2週間の売上でプラスマイナスゼロにできました。翌年からは別の場所で同じ形態で続ける人も出てきました。机上のプランでなく、実際に求める将来像を仮設でつくってみて、皆で体験し共感を拡げるやり方に手応えを感じて、ハートビートプランを設立することにしました。「リバーカフェSUNSET37」がきっかけになって、後に土佐堀川に川床をつくるプロジェクト「北浜テラス」にもつながっていくことになります。

2003年10月に実施された「リバーカフェSUNSET37」。有志やボランティアで川の上に浮かぶカフェを運営し、それまでの大阪の水辺は汚いなどのマイナスイメージを払拭。川沿いの魅力的な空間を認識してもらい、メディアにも取り上げられ成功を収めた。

Q. これまで印象に残ったプロジェクトや仕事の転機となったプロジェクトはありますか? A. 独立する前から関わっていた、高松市の中心市街地活性化のプロジェクトです。通常のこういったプロジェクトは、商店街の人たちと仕掛けることが多いのですが、高松中央商店街アーケードは日本一の長さを誇り、商店街がしっかりしていて力が強かったんです。すでにいろいろ独自でやっていて、こちらから提案する必要もなかった。そこで、市民サイドから「まちラボ」と呼ぶゲリラ活動を有志3~4人ではじめました。街を活性化させるといった上から目線でなく、ただ自分たちが街をどう楽しむかという視点でのスタート。月に一度「この人は面白い!」と言われている人にスピーカーになっていただいて、人を集め、飲み行くまでがセットです(笑)。ちゃんとした委員会をつくって会議をするのではなく、ほんまにやりたいと意欲のある人が、適任者をピンポイントで連れてくることを重ねました。だんだんと人が集まってきて、その後高松のまちなかビジョンを自分たちでつくって実現していこうと企画が立ち上がり、その企画書を高松市や香川県や経済界などに提案していきました。そうして、多くのプロジェクトが実現していき、参加したメンバーの一部が「瀬戸内国際芸術祭」の立ち上げ運営にも深く関わるなど広がっていくのを目の当たりにしました。ゆるやかなネットワークであっても個々の強いモチベーションがあり本気を出したら街や世の中が変わるんだ、ということを身をもって体験しましたね。

TMO高松の中心市街地活性化のプロジェクトとしてスタートした市民参画型の「まちラボ」。月に一度、スピーカーを招き、交流が生まれ、市民サイドから街を面白がるさまざまなプロジェクトが生まれた。

高松市の中心市街地活性化のプロジェクトのときは、月に4回以上、大阪から高松に通っていた泉さん。街を楽しむという視点から多くの人を巻き込み盛り上げていく取り組みを続けてきた。

Q. もうひとつの転機となったのが、「水都大阪」とのことですが。 A. 2009年に府・市・経済界主導でシンボルイベントが開催され、2011年からは民間の若手ディレクターに任せる方針になりました。僕はそれまで誰に頼まれたわけでもないのに、「リバーカフェSUNSET37」や「北浜テラス」など勝手に活動していたので、ランドスケープデザイナー、企画・プロデューサー、コミュニティデザイナーと僕の4人が招聘されました。3月末に声がかかって「ゴールデンウイークは全部明けとけ」と言われたのを覚えています(笑)。2013年に民間組織「一般社団法人水都大阪パートナーズ」をつくり、トータルで6年関わりました。たとえば、川辺の木にブランコをぶらさげて子供を遊ばせたいといった公募プログラムや、川沿いにビアレストランを常設したいという民間企業の企画などは、管理サイドが通常なら許可できないことでした。それに対して、こういうことなら提案が通るんじゃないかと、市民団体や企業のやりたいことと行政管理者側ルールというお互い言語が違うものを擦り合わせるコーディネートを数多くしてきました。毎年1000人以上の運営参加者のみなさんと一緒に活動してきたことも含め、この経験はいま仕事をする上でとても役立っています。 Q. パブリック空間を使いこなすためのプロジェクトを数多く手がけられていますが、利活用することで街にどんな影響・効果をもたらすのでしょうか? A. 普通は、人はプライベートな空間で食べたり寝たりしていると思うんですが、プライベート空間でしている行為がパプリック空間へ滲み出している街、そうでない街というのがあって、面白い街は絶対と言っていいほど滲み出していると僕は思っています。昔、旅した中国も相当滲み出していたし、ベトナムもインドもパプリック空間をうまく使っている。アジアは整理整頓されていないけれども、活発に使われていてパワーを感じましたね。アジアの人は家で食べるより、基本は外で食べますよね。外食文化だけど、ヨーロッパのレストランやカフェとはまったく違う。一方でヨーロッパなどは本当にゆったりした使いこなしが上手でパブリック空間のデザインも秀逸です。日本でも暮らしが滲み出している自由空間がたくさんあります。多くの国を旅してきて、空間の質と人の活動の両方が滲み出すパブリック空間に身を置けば、その街の状態がわかります。パプリック空間が健全な街は健全だし、もう一方で怖くて荒んだ感じがするところもある。パブリック空間は街の表情、性格を決めるものだと思います。 Q. 大阪の街はそうしたパブリック空間のポテンシャルがあるのでしょうか? A. あると思います。「ミズベリング」という水辺を活用する官民一体の協働プロジェクトや道路を利活用する全国会議で、メンバーから「大阪はなんでこんなにぶっ飛んでいるんだ!」とよく言われるんです。「川でも道路でもふつうは絶対無理ですよ、行政が認めないでしょう?」ということが大阪では実現できる。大阪は大きな田舎なので、東京ほどは大きくないが地方よりはマーケットも大きいし、担い手も多い。国の機関からも一定の距離があり、それに商人の街だから反骨精神もあるので新しいことにチャレンジしやすい。行政も面白いことなら挑戦してもいいんじゃないという気持ちがある。パブリック空間の使い方に関して、東京や地方都市から注目されているのではないでしょうか。

2016年に大阪ミナミの玄関口である南海なんば駅前で歩行者を主役とするプロジェクト「なんばひろば改造計画」を実施。さらに2021年11月23日から12月2日までの間、駅前に広場が出現し可能性を探る実証社会実験が行われた。

Q. プロジェクトを手がけるにあたってどんなプロセスが行われていますか? また心がけていることは? A. 人口が増えていた時代は、施設をつくると使い手は自動的にたくさんいましたが、僕らの時代は人口減少・少子化なので、使われない建物や空間がどんどん出てきます。昔からのやり方では通用しません。一番大切なのは、つくってからなのです。つくるのはさほど時間はかかりませんが、その街や建物の価値を上げ続けていくには、30年、50年のスパンで考えないといけない。僕らは“つくる目線”、“使う目線”と言っていますが、使い手が共感しやすい“使う目線”でスタートしていくことが重要です。 また、街の価値を上げ続けていくには、いろいろな興味の度合いに応じて“関わりしろ”がある状況をつくるということが大切です。がっつり運営したい人しか関われない状況をつくってしまうと、ふつうの人は尻込みして関わるのをためらうでしょう。「ちょっと興味あるから遊びに行ってみようか」でいいんです。その次に「ボランティアで手伝ってみようか」、そのまた次の段階になると「私たちもここでプログラムをやってみたい」になり、「プログラムをやるだけでなく、全体の運営に関わりたい」といろいろなレベルがある。その人の気分に応じた関わり合いが自由にできる。そうした自分が関わる余白がある“関わりしろ”が大事なんだと、「水都大阪」の仕事で思い知りましたね。ただそこにいるだけでもいいし、関わってもいいんだという空気感を醸成する、言うのは簡単でそれが一番難しいことなんですが(笑)。 Q. うめきた2期へのアドバイスや期待することは? A. うめきた2期では、商業施設の役割としてまちに来た方々にいろいろな商業的サービスを提供する一方で、公園やパプリック空間の役割として、あらゆる人がそこを使ってもいいという雰囲気を醸し出すような、曖昧さを残した“関わりしろ”が求められると思いますね。都心の一等地にあれだけのスペースができるわけですから、ほっといても人がどんどん集まってきます。通常、こうしたプレイスメイキングをするときは、人をどうやって集めるかを考えますが、うめきた2期の場合は逆にどうやって適切な密度で心地よく居れるか、というのを考えるのが重要です。それが実現したら、世界にも類を見ない、とても気持ちの良い空間になるんだろうなと期待しています。

泉英明(いずみ・ひであき)
1971年東京都生まれ。都市プランナー。2004年に有限会社ハートビートプランを設立。ディープな大阪を案内する「OSAKA旅めがね」や、川床をつくって水辺の景色を楽しむ「北浜テラス」などを仕掛け、「水都大阪」のディレクターとして事業推進。大阪なんば、西梅田、高松、姫路、山口のまちなか再生や公共空間のプレイスメイキング、山口県長門湯本温泉再生などに関わる。著書に『都市を変える水辺アクション』(共編著、学芸出版社)、『民間主導・行政支援の公民連携の教科書』(共著、日経BP社)。

ポートレート:蛭子真 文:脇本暁子