橋なくして大阪は語れない。水都大阪を支える橋文化
2020.12.21
2020.12.21
大阪は水の都である。古くは「難波津」と呼ばれ海外交易の拠点となっていたが、大阪城を築いた豊臣秀吉によって開削された堀川(運河)や網の目のように張り巡らされていた河川に架けられた橋が約200あり、江戸時代には「八百八橋」と呼ばれていたほど。現在でも心斎橋や天満橋、四ツ橋など橋のつく地名が数多く残っており、大阪は河川と橋とともに発展してきたことを物語っている。天下の台所の繁栄を支えてきた、現代に残る3つの橋を紹介しよう。 ●難波橋(なにわばし) 大阪を代表する橋のひとつで、土佐堀川と堂島川の2つの川をまたいで架けられている全長189.7mの橋。4体のライオン像が配置されていることからライオン橋の愛称で親しまれている。江戸時代に架けられたが明治45年(1912年)に現在の位置に移転した。その優麗な姿は天神橋、天満橋とともに浪華三大橋のひとつに数えられている。
●淀屋橋(よどやばし) 「八百八橋」と讃えられる大阪だが、じつは江戸幕府により整備し管理された公儀橋はたった12本のみ。それ以外は町人によって架けられた町橋だった。淀屋橋も江戸時代の豪商・淀屋が造った橋だ。昭和10年(1935年)に重厚な意匠の鉄筋コンクリート製の橋に架け替えられた。2008年には国の重要文化財に指定されている。
●戎橋(えびすばし) グリコの看板でおなじみ大阪ミナミ最大の繁華街にある。江戸時代に安井道頓が道頓堀を開削した際に町民らが架けた町橋であった。歌舞伎の芝居小屋や人形浄瑠璃の竹本座、豊竹座など大阪中の芝居小屋が集結し賑わいをみせた。2007年、全長26mの鉄筋コンクリート製の現在の姿に架け替えられたが、現在でも食い倒れの道頓堀のシンボルだ。
2024年夏にまちびらきする「うめきた2期」にも象徴的な橋が架けられる。その名は「ひらめきの橋」(仮称)。まちの中心にある南北の公園をつなぐこの橋は、高さ6〜8mの立体歩行空間として公園や道路を見渡すことができる。また、そのまま敷地全体を貫くように蛇行する遊歩道「ひらめきの道」としてつながり、まち全体の散策を楽しむことができるようになっている。 「この浮かぶ通路は、公園を見下ろしながら、樹々の間を通り抜けながら、緑と一体化できる体験が味わえます。敷地の北エリアと南エリアのちょうど中央に道路が通っており、道路の上を渡す緩やかなアーチを描く全長約60mの橋が『ひらめきの橋』です」と話すのは、公園設計に携わる日建設計の岡隆裕さん。
まちの中央を東西に渡る道路「にぎわい軸」は「ケヤキ等を植えつつ、賑わいを生む仕掛けを置き、シェアードストリートとして期間限定のイベントも行えるような、公園を分断せずに一体化する、ひとつのプラザ(広場)として活用できる空間にデザインされています」。ほかにも、南エリアとJR大阪駅、北エリアとグランフロント大阪にもデッキが繋がる予定で、うめきた全体を回遊することができるようになる。「グランフロント大阪とうめきた2期地区の間には銀杏並木があって、大阪のシンボルストリートのひとつになります。秋には黄色く彩られる美しい通りになり、その上を渡るデッキからも通りを見通すことができるようになります」(岡さん)。「このまちでは橋も通りも、単なる通過動線ではなく、公園とまちの景色を楽しみ、散策自体が目的となるような、パブリックスペースとしても機能するように考えられています」 歴史を紐解いてみても、橋はただ往来するためのものだけでなく、橋の上で憩い、人と出会い、景色を愛でるなど、さまざまなストーリーがある。古くから大阪にある橋と同様に、人々に愛されるシンボリックな橋が誕生することになるだろう。
写真:内藤貞保 文:脇本暁子